2019年11月5日

横尾家の梅

30数年目の夏の出来事

壽屋で梅の砂糖漬「茜姫」を製造販売するようになってすでに30年あまりが経ちました。長年に及び、改良を重ね続けて現在に至っております。そんな令和元年、夏の終わりに大変驚く事実を伺うことができました。山形大学農学部教授の江頭宏昌さんが、郷土史研究家の斎藤久市さんより伺った話ということからもたらされた情報です。


山形大学農学部教授の江頭宏昌さん

細野地区の古い梅の木は
京都からもたらされた!?

尾花沢市細野地区の天満神社の境内にある1本の古い梅の木。これは、細野地区の旧家柳橋家が京都から持ってきたと伝えられているそうです。その伝えられた時期と内容についての有力な説が、1823年(文政6年)に京都の東本願寺が火災に遭ったころ、全国の門徒が再建を支援することになり、翌年現在の尾花沢市鶴子からカシの大木が切り出され、東本願寺に奉納されることになったということです。現地に到着した木材の見分に立ち会うために、横尾家(東根市の横尾新酒造店)の一人が出向くことになっていたのですが、その代理で細野の柳橋善兵衛が出かけて、京都あるいは帰りの道中から梅の木を持参して、2本は横尾家の敷地のお稲荷さんと蔵の前に、もう1本は天満神社の境内に植えられたということです。


当時の横尾新酒造店の様子

横尾家の歴史

この横尾家というのは、私ども壽屋の本家にあたる家で、茜姫開発者の現・壽屋会長横尾昭男の生まれた家でもあります。壽屋は、この横尾新酒造店から昭和26年に分家をして酒の小売店をスタートし、その後漬物製造販売業を併設し、今に至っております。
横尾家は1600年代に山形城主の最上義光公の家臣だった志村伊豆守の直系にあたる庄次郎が別家して1692年に東根に住み志村庄次郎と名乗ったのが初代。途中、横尾姓を名乗り、現在16代目。梅の木が運ばれた際は8代目の横尾正作の時代と推定されます。


在りし日の梅の木(平成3年撮影)

京都から運ばれ、横尾家の庭に植えられたとされる梅の木は、2002年の台風のために最後の1本が倒れてしまったということです。現在横尾家は東根市の施設「東の杜資料館」として一般に公開され、文化施設としての役割をになっています。

確かに、幼い頃、
梅の木がここにあった!

早速、会長とその昔から横尾新酒造店に出入りしている岡田元助さんと共に、梅の木のあった場所を訪れました。二人の話では、幼い頃に、確かに酒を醸す造り蔵の前に立派な梅の木があったということで、大人が両手を回しても足りないくらいの太さだったということ。来歴などは全く知らずに過ごしていたということでした。残念ながら、倒れてそのあと枯れてしまった後、同じ所から生えてきた木を生まれ変わりかと育てていた所、桜の木だったということで、現在は立派な桜の木が生えていました。なくなってしまった梅の木は、ほんの少し根っこだった部分が残るのみとなっていました。


横尾会長と岡田元助さんと梅の木の跡

梅…ご先祖様から
与えられた使命。

江戸時代、明治、大正、昭和、平成、令和と約200年の歳月を経て明らかになったこの話。横尾家の分家にあたる私たちが完熟梅の砂糖漬を製造販売していること。偶然といってしまえばそれまでではありますが、このタイミングで私たちがこの話を知ったことも含めて、ご先祖様からの強いメッセージを感じています。この地に根ざして、完熟梅の砂糖漬を製造販売していくことは、私たちのご先祖様から与えられた使命ともいえるかもしれません。この使命を全うしていけるように、引き続き精進を続けていきたいと思っております。


スタッフ一同精進してまいります。